東北タイには通常,日本に見られるような形の墓地はない.しかし,墓はある.その墓のさまざまな形態を,以下に紹介していく.葬礼を含む東北タイの儀式一般は,文末に引用文献として紹介した林行夫先生の著作「ラオ人社会の宗教と変容」に詳しく,また体系的に紹介されているので,ここでは,身近な人から聞き知ったり,自分の目で見たりした,こまごまとしたことを中心に述べていきたい. 当然のことながら,ルーイといった東北タイ北部,コンケンなどの中央部,クメールやグーイが多く住むスリンなど南部とでは,墓に関する文化も大きく変わってこよう.したがって記述はなるべく東北タイ一般としてのものを避け,写真には撮影地を記した.(「東北タイ」と一括して呼ぶことには,慎重であるべきなのかもしれない.) |
墓に入るまで
東北タイ地域では通常の場合,遺体は荼毘に付される.昔は火葬場などなく,すべて村はずれの林の中や水田などで野焼きしていたがいたが,現在では右の写真のような火葬施設が寺の境内に建てられていることが多い.(火葬の風習については, こちらに少し詳しく述べたので,参照していただきたい.) 火葬にした後の骨は,いくつかに分骨し,寺の建物に納めたり,家の中に置いておいたりし,一部を以下に述べていくような墓に入れるのである. 【参考】:コンケン県D村における埋葬方法の推移[林:2000]
<1860年代>
<1937−1938>
<1971>
<1976>
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木柱の墓標
図-1の3枚の写真は,いずれもスリン県で撮影されたものである.木柱の下には骨が埋められている.新しい木柱は見当たらないため,現在では新たにこうした形で埋葬される骨はないのであろう. 写真の木柱はすべて,寺院の境内に1箇所あるいは数箇所にまとまっている.「××母ちゃん」「○○父ちゃん」と書かれたものがあるということが,その墓に参る人がいたことを示しており,後述するような墓石を立てることこそなかったものの,遺骨に対する考え方は,すでに今日とほとんど同じであったと考えられる. こうした墓は東北タイ南部以外では見たことがない.クメールやグーイは塀や墓石の材料となるセメントの使用が一般化する以前,つまりラオ人よりも古くから,寺の境内に墓を作って遺骨を祭る習慣があったということになるのだろうか.
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寺院の塀
墓石
これは日本人に最もなじみの深い形の墓であろう.ラオ語では「タート」と呼ばれる(註3).東北タイナコンパノム県に「タートパノム」という有名な寺院がある.あの「タート《that》」である. 古い墓石(セメントだが)はその場で一つ一つ作られたものであると見られるが,今日新たに建てられるもののほとんどは,墓石屋や棺桶屋で売られている大量生産の既製品である.既製品の墓は中が空洞で軽く,さらにいくつかのパーツに分解可能なため運搬は容易で,乗合ソンテウやピックアップで運ばれていくのを時々目にする. こうした墓石が置かれるのは,主に寺の境内,特に寺の塀沿いが多いが,家屋の裏庭や,村外れの田園に単独でおかれる場合もある(写真3.0). 4月のタイ正月(灌仏会)には一族で参り,食物を供え,線香を手向け,柄杓やコップで水を掛ける.また新暦1月の正月にも参ることもある.つまり,墓の外見も墓参の形態も,日本に非常に近い. 北タイ地方などの墓石がどれも良く似た形をしているのに対し,東北タイでは多様な墓石の形を見ることが出来る.その形状については,姉妹編「東北タイの墓石」に詳説した.
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もともとこうした仏塔に納めるのは貴族や高僧の遺骨に限られていたのが,商品経済の発展と共に墓石が比較的簡単に手に入るようになってから,一般庶民の納骨場所としても用いられるようになったのだろう.庶民の遺骨を納めた墓石の出現は比較的新しいものではあるが,昔から様々な形で行なわれてきた故人にたいする供養儀礼に付け加わる形で取り入れられたに過ぎない.
遺骨を寺の敷地内に納めることは,墓石の出現以前にすでに行なわれていた.それ以前の過程――もともと遺骨に余り関心を示してこなかった庶民が,いかにして遺骨を祀る風習を取り入れていったのか――は,興味深いところである.
中国風廟
この墓地があるスリン県のSikhoraphum郡は,鉄道の開通後,華僑が数多く移り住んできたという.印僑も多いのか,モスクもあり,田舎町にしては,かなり国際色豊かである.東北タイの中ではかなり特殊な例といえるだろうか.寺の敷地の外に,「墓地」の形をとって廟がまとまっており,通常の東北タイの墓の形態とは大きく異なる.
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コンクリ詰
あまり響きはよくないが,ほかに呼び名が思い当たらない.
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註
(3)この語は「仏舎利塔」を意味するラオ語(東北タイに最も多いラオ人が話す言葉)であって,標準タイ語ではない.(タイ語辞典には載っておらず,ラオ語辞典に載っている)クメールは「プラサート」と呼ぶし,標準タイ語では「チェディ」であろうか.しかし,ラオ人はなぜかこの「タート」が標準的な呼称であると信じて疑わない.あるラオ人の前で,これらの墓石のことを「チェディ」と呼んだところ馬鹿笑いされた.戻る
(4)現在の東北タイ住民は,ラオ人をはじめとしたタイ系民族が大半を占めるが,スリン県などカンボジアと国境を接する地域には,クメール系の言語を話す住民が数多く居住する.クメール人,そしてグーイ人である.戻る
引用文献
林行夫,ラオ人社会の宗教と文化変容,京都大学学術出版会
参考文献
富田 竹ニ郎,タイ日辞典,1986,養徳社