(2001.09.01大幅改定)
東北タイの墓

 東北タイには通常,日本に見られるような形の墓地はない.しかし,墓はある.その墓のさまざまな形態を,以下に紹介していく.葬礼を含む東北タイの儀式一般は,文末に引用文献として紹介した林行夫先生の著作「ラオ人社会の宗教と変容」に詳しく,また体系的に紹介されているので,ここでは,身近な人から聞き知ったり,自分の目で見たりした,こまごまとしたことを中心に述べていきたい.

 当然のことながら,ルーイといった東北タイ北部,コンケンなどの中央部,クメールやグーイが多く住むスリンなど南部とでは,墓に関する文化も大きく変わってこよう.したがって記述はなるべく東北タイ一般としてのものを避け,写真には撮影地を記した.(「東北タイ」と一括して呼ぶことには,慎重であるべきなのかもしれない.)

 


墓に入るまで


写真0.1 夕闇に浮かぶ火葬場
撮影:スリン県T村

 

 東北タイ地域では通常の場合,遺体は荼毘に付される.昔は火葬場などなく,すべて村はずれの林の中や水田などで野焼きしていたがいたが,現在では右の写真のような火葬施設が寺の境内に建てられていることが多い.(火葬の風習については, こちらに少し詳しく述べたので,参照していただきたい.)

 火葬にした後の骨は,いくつかに分骨し,寺の建物に納めたり,家の中に置いておいたりし,一部を以下に述べていくような墓に入れるのである.

【参考】:コンケン県D村における埋葬方法の推移[林:2000]

<1860年代>
・遺骨はすべて火葬した場所に(壷に納め)埋葬し,木の徴標をたてる,
・年中儀礼,供養時共に参らず,放置される.

<1937−1938>
・遺骨の2分納様式開始.遺骨の一部を寺院内の墓に納骨.
・1940年代以降定着

<1971>
・共同墓地に埋葬していた遺骨を寺院の火葬場に埋葬.現在の様式が整う.
・火葬場の使用料(100バーツ)がタンブンとして必要となる.

<1976>
・納骨様式として塀柱式が加わる.収納費600バーツがタンブン(HP筆者註:「タンブン」とは徳を積む行為のことで,ここでは単に「お布施」ほどの意味であろう.)として必要.
・現在,ストゥーパ型の墓(HP筆者註:本文内で「墓石」として紹介したもの)は68基,塀柱式は35ヶ所設置される.

 


木柱の墓標

 図-1の3枚の写真は,いずれもスリン県で撮影されたものである.木柱の下には骨が埋められている.新しい木柱は見当たらないため,現在では新たにこうした形で埋葬される骨はないのであろう.

 写真の木柱はすべて,寺院の境内に1箇所あるいは数箇所にまとまっている.「××母ちゃん」「○○父ちゃん」と書かれたものがあるということが,その墓に参る人がいたことを示しており,後述するような墓石を立てることこそなかったものの,遺骨に対する考え方は,すでに今日とほとんど同じであったと考えられる.

 こうした墓は東北タイ南部以外では見たことがない.クメールやグーイは塀や墓石の材料となるセメントの使用が一般化する以前,つまりラオ人よりも古くから,寺の境内に墓を作って遺骨を祭る習慣があったということになるのだろうか.


写真1.1 木柱の墓標.
 中央左よりの杭には「ジャープかあちゃん《mae jap》」という墓碑銘がある.このそばには「ジュワンとうちゃん《pho Juwang》」という墓碑も見られる.

写真1.2 兵士の墓
 昔の戦で死んだ兵士の墓らしい.かなり太い木柱を,日本の古い橋の欄干のような形に削り出している.
撮影:スリン県TK村 撮影:スリン県T村


写真1.3a セメント作りの墓の周囲に立てられた木柱の墓標
 富裕な者にはセメント作りの墓が広まりつつあった一方で,その他の者は従来どおりの木柱の墓を建てる,そういう過渡期のものであろうか.(右の拡大写真参照)

写真1.3b 左写真拡大
 矢印で示したのが墓標.
撮影:スリン県

 


寺院の塀

 寺院の塀を墓とする例は,東北タイ各地で見られる.塀のブロック積みの部分や,柱の部分に穴をあけ,もしくは塀から出っ張る形でセメントの納骨スペースを作り,そこに骨を入れた小瓶を入れて封をする.

 塀に故人の遺影を焼き付けたタイルや名前や出生年月日,死亡年月日などを刻んだ銘盤を埋め込んでいる例も多い.

 寺院の塀は,村人が寄進した金で建てられるものが多く,こうした場合,柱で区切られた塀の1スパン(2−3m)に,寄進者の名前と寄進額が書かれているのを見ることができる.こうして自分の名が書かれているところに,親族の墓を作るようだ.

 写真はラオ人圏のものしかないが,クメールやグーイの村でも,塀に遺骨を納めることは行なわれている.

写真2.1 寺の門に埋め込まれた銘盤
 故人の写真を焼き付けたタイルが貼り付けられているほか,生没年などが刻まれている.供えられた花が,遺族の墓参が絶えないことを示す.

写真2.2 寺院の塀
 寄進者と寄進額,寄進年月日が書かれている.額は1000-2000バーツ.
 手前の区画には既に銘盤が埋め込まれている.寄進が行なわれたのは1999年で,銘盤はその前年に19歳で亡くなった女性のものである.母親(寄進者は女性)が娘の来世での幸せを祈り,寄進を行なったものだろうか.

撮影:コンケン県ムアン郡 撮影:コンケン県ムアン郡

写真2.3a 塀が完全に納骨スペースとして作られている.

写真2.3b 同左

撮影:ウドンターニー県ムアン郡P村

 


墓石

写真3.0 村はずれに単独で建てられた墓

撮影:スリン県K村
 

 これは日本人に最もなじみの深い形の墓であろう.ラオ語では「タート」と呼ばれる(註3).東北タイナコンパノム県に「タートパノム」という有名な寺院がある.あの「タート《that》」である.

 古い墓石(セメントだが)はその場で一つ一つ作られたものであると見られるが,今日新たに建てられるもののほとんどは,墓石屋や棺桶屋で売られている大量生産の既製品である.既製品の墓は中が空洞で軽く,さらにいくつかのパーツに分解可能なため運搬は容易で,乗合ソンテウやピックアップで運ばれていくのを時々目にする.

 こうした墓石が置かれるのは,主に寺の境内,特に寺の塀沿いが多いが,家屋の裏庭や,村外れの田園に単独でおかれる場合もある(写真3.0). 4月のタイ正月(灌仏会)には一族で参り,食物を供え,線香を手向け,柄杓やコップで水を掛ける.また新暦1月の正月にも参ることもある.つまり,墓の外見も墓参の形態も,日本に非常に近い.

 北タイ地方などの墓石がどれも良く似た形をしているのに対し,東北タイでは多様な墓石の形を見ることが出来る.その形状については,姉妹編「東北タイの墓石」に詳説した.

店頭に並べられた墓

撮影:スリン県 撮影:スリン県

 もともとこうした仏塔に納めるのは貴族や高僧の遺骨に限られていたのが,商品経済の発展と共に墓石が比較的簡単に手に入るようになってから,一般庶民の納骨場所としても用いられるようになったのだろう.庶民の遺骨を納めた墓石の出現は比較的新しいものではあるが,昔から様々な形で行なわれてきた故人にたいする供養儀礼に付け加わる形で取り入れられたに過ぎない.

 


 遺骨を寺の敷地内に納めることは,墓石の出現以前にすでに行なわれていた.それ以前の過程――もともと遺骨に余り関心を示してこなかった庶民が,いかにして遺骨を祀る風習を取り入れていったのか――は,興味深いところである.

 


中国風廟

 この墓地があるスリン県のSikhoraphum郡は,鉄道の開通後,華僑が数多く移り住んできたという.印僑も多いのか,モスクもあり,田舎町にしては,かなり国際色豊かである.東北タイの中ではかなり特殊な例といえるだろうか.寺の敷地の外に,「墓地」の形をとって廟がまとまっており,通常の東北タイの墓の形態とは大きく異なる.

中国風墓地
 タイ仏教寺院の裏手に,中国風の墓地がある.

同拡大

撮影:スリン県Sikhoraphum郡

 


コンクリ詰

 あまり響きはよくないが,ほかに呼び名が思い当たらない.
 ちょうど棺桶の大きさくらいの,コンクリート製の直方体の墓を見ることがある.寺の敷地内にもあるし,集落の近くにもある.火葬せずに,コンクリートで棺桶を固めたものである.あくまで遺体を仮安置しているもので,墓というには適当でないかもしれない.「東北タイにおける火葬の風習」参照.

コンクリ詰

撮影:スリン県S郡

 


(3)この語は「仏舎利塔」を意味するラオ語(東北タイに最も多いラオ人が話す言葉)であって,標準タイ語ではない.(タイ語辞典には載っておらず,ラオ語辞典に載っている)クメールは「プラサート」と呼ぶし,標準タイ語では「チェディ」であろうか.しかし,ラオ人はなぜかこの「タート」が標準的な呼称であると信じて疑わない.あるラオ人の前で,これらの墓石のことを「チェディ」と呼んだところ馬鹿笑いされた.戻る

(4)現在の東北タイ住民は,ラオ人をはじめとしたタイ系民族が大半を占めるが,スリン県などカンボジアと国境を接する地域には,クメール系の言語を話す住民が数多く居住する.クメール人,そしてグーイ人である.戻る


引用文献

  林行夫,ラオ人社会の宗教と文化変容,京都大学学術出版会

参考文献

  富田 竹ニ郎,タイ日辞典,1986,養徳社


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